羅生門・鼻・芋粥・偸盗/芥川龍之介

2018/09/09

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【要旨】
芥川文学初期の代表作である「羅生門」、「鼻」、「芋粥」、「偸盗」を集めた短編集。
荒れ果てた社会情勢の中、人間としての理性をなんとかなんとか保っていた下人が一瞬でその理性を失う様を描いた「羅生門」。
自らの長すぎる鼻を密かにコンプレックスとしてかかえた法師が、短くすることに成功するも、その後は短くなった鼻をコンプレックスとしてかかえこんでしまったという人間喜劇、「鼻」。
芋粥に異常な執着心をもつ冴えない主人公が、芋粥を腹一杯食べるという夢を叶える話。そんなハッピーエンドなはずがどうしてだろうか、笑えない。「芋粥」。
一人の女をめぐり交錯し合う兄弟の心。その三人のまわりの人々との関係もさらに交錯しあう、誰のせいでもない。そんな、「偸盗」…。
自己肯定と自己否定、信義や愛、美醜、そして矛盾。様々に入り組み絡み合う人間の内面を描いた作品群が揃っている。

【書評】
「羅生門」は国語の授業でやったこともあるし、他にもいくつかさらっと芥川の作品は読んだことがあるが、改めて、しかも同時代の作品を集中して読んでみたらその時代の芥川文学の思想が浮き彫りになってきて非常に面白かった。今回読んだこれらの作品群は、芥川文学の中では初期の作品として位置づけられる作品たちである。これらの作品群に共通して言えるのは、人間の心の矛盾を描いているということである。「偸盗」他の作品と比べると長いが、どれも短編と呼べる短さの作品であり、あっという間のその短さの中でグッと世界観の中へ引き込み、「不景気、荒廃した街の中暇を出された下人がこれからどうしようか迷っている」「長過ぎる鼻をコンプレックスとして抱く法師」「芋粥を腹一杯食べてみたいおっさん」「弟と好きな人がかぶってもーた兄貴」…何気ないテーマの中で人間の心の自然な動きと、その矛盾をさも何ともないことであるかのようにあばいていく。
どの小説も決して人ごとではないのだ。バカなことだとして笑い飛ばすことはできない。
だって、自分の中に心当たりがあるから。自分がいつそんな状況になるか分からないから。
やはり歴史の荒波に耐えて、今なお名著として多くの人々に読み継がれている作品、作者にはそれなりの理由があるのだなと。
全く古びないその主張。人間が変わっていないのか、芥川に先見の明があったのか。
自分は前者だと思う。
人間はなんにも変わらない。いつだって自分の中の欲望と理性と。心と社会通念との間で戦っている。

「よく大人っていうのは…なんていうのかな。
辞世の句をよく残して死んでいく詩人とか多いでしょ?
そういう人たちの…こう、生き様とかを見てると、
何故人間っていうのはいつまでたっても同じことで悩み、同じ過ちを繰り返し、
その…精神的にもっと高揚していくべくあるはずなのに、
そうならないんだろうみたいなことをね。
なんかこう少年時代にずっとそんなことを考えていたら、
逆に、その、自分が大人になったときにそうなることに対しても、
ある危惧感をおぼえていたのかもしれない。」

これは尾崎豊の言葉だけど、今回読んだ作品群の思想を代弁した言葉のように思える。
芥川の時代からしてみれば過去の出来事である古典作品を題材にしながら過去と芥川の生きた「現代」を比較してみせた。その手法は芥川の生きた「現代」が過去となってしまった今に至っても健在である。
現代に生きる我々は、今なお芥川の作品に登場する滑稽な人々を笑い飛ばせずにいるのだから。

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