ユートピアについて、考えた。(2013年11月ごろ、西南学院大学1年在学時)

2018/09/09

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Ⅰ.ユートピアとは

ユートピアとは、

『イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作「ユートピア」に登場する架空の国家の名前。』(Wikipediaより引用)

である。

その中でユートピアは、決して現実には存在しない理想の国家として描かれており、そこから現在の我々がユートピアときて思い浮
かべる「理想郷」というイメージも出来上がっていったのだろうと思われる。
トマス・モアが「ユートピア」を出版した後も多くの架空の社会について描いた作品が出された。それらはユートピア文学というジャンルでくくられ、理想社会を描くことで現実への批判をするという意義をもっていた。
しかし、一口に理想郷と言えど、ユートピアは大きく分けてふたつに分類される。一つはトマス・モアが描いたような非人間的な管理社会。そしてもう一つは現在我々が「ユートピア」と聞いて思い浮かべるであろう、自由主義的、牧歌的な理想郷である。
反対語として「ディストピア」があり、「ディストピア文学」という言葉もある。ディストピア文学もユートピア文学と同じく理想の社会を描くことによって現実社会を批判することに主眼をおいている。なお、ディストピアは、ユートピアの反対語と言われているが、ユートピアの一形態であり、角度を変えれば、ディストピアはユートピアであると言うことができる。ディストピア文学の代表作としては、ジョージ・オーウェルの「1984」などがある。

Ⅱ.ユートピアと死

人間ならば誰にでも夢がある、理想がある。

それは皆一人一人違うだろう。しかし古来から変わらずに人間が問い続けてきた疑問、戦い続けてきた恐怖がある。それは死である。

人間はいつか死ぬ。しかし人間がユートピアを思い描くとき、その中において人間は基本的にすべての疑問、恐怖から解放されている。もちろん、死に対してのそれからもである。

なぜであろうか。それは、ユートピアについて考えるときには未来のことを「夢見」しているからである。自分の将来に思いを巡らせるとき、あなたは、「自分はいずれか死ぬのだ」ということを考えるだろうか。いや、考えないだろう。しかし不安は生じる。そして、すべての不安は死の不安に通ずる。そこで、死をこえて生きるという発想が生まれる。それが死者の世界であり、一種のユートピアでもあるわけである。つまり、ユートピアと死の間には、深い関係があるのだ。ということは、人間がどのように死をとらえ、死と向き合っていたのか。それはユートピアに対する人間のとらえ方、向き合い方を
見れば自ずと分かってくるのではないだろうか。
人間世界における不変の心理というものがある。それは、ざっくり言ってしまえば「人間はいつか必ず死ぬ」ということ。そして、「愛する人が死ぬと悲しい」ということである。それは過去も現在も、そしておそらく未来も、変わらないことだ。

従って、人間は昔から死者を埋葬するということをしてきた。死んでしまった愛する人が死んだあとにも苦しむことのないように、死んだあとにも幸せであるように、死んだのちにそんな苦しみのない、幸せな世界に行くことができるように。そう祈って埋葬するということをしてきたのだ。仏教における極楽浄土もそうだし、キリスト教の天国だってそうだ。ヒンドゥー教にはデーヴァローカ、北欧神話のアースガルズ、神道の天津国も似たようなものである。人間ならば世界中どこでも、だれでも、いつでも、同じような考えをもっていたことがうかがえる。このように世界中に散在する様々な葬礼文化であるが、こ
の中でも、授業で取り上げられた古代地中海世界における葬礼文化を見てみよう。
古代地中海世界における葬礼領域の理想世界(ユートピア)は「楽園表象」であった。名前を見ただけでも分かる通りこれはもちろん二つに分類されるユートピアのうちの後者の方であるが、その後者に分類される「楽園表象」の中でもさらに二つにわけることができる。一つは都市型の楽園表象。そしてもう一つは牧歌型の楽園表象である。それらはいずれも共通してその時代、その地域の文化的、社会的な背景を創出しており、そしてもちろん愛するものの幸せを願う気持ちが投影されている。都市型と牧歌型の違いはといえば、都市型はその名の通り死後の世界を「理想都市」として描き、死者はその世界の住人
となるというものであるのに対し、牧歌型は死後の世界を、完全な自然界(未知なる世界)ではないが、完全な人間世界(既知なる世界)でもないという、自然(神)と人間が共生、共存する世界として描いている。つまりその世界においては、人間は神の懐に抱かれて抱かれている状態。そんな至福の状態なのである。そんな夢の世界に、死後愛する人が向かうことができるよう、そんな願いをこめて古代地中海世界の人々はこのような葬礼文化を育んできたのである。葬礼を行う人々にとって、死後の世界は存在するのかどうかなどということは関係ない。なくては困るのだ。愛する人が死後幸せに暮らせる世界が、
なくては困るのだ。やはりユートピアと死の関係は、とても深いと言えるだろう。

Ⅲ.それぞれのユートピア

ここまでは、いうなれば人間の根本的な理想(死の不安、恐怖の払拭)に関連したユートピアをみてきたわけだが、もっと表面的な欲求。「欲望」に根ざしたユートピアもある。「欲望」。それはユートピアについて考える上で欠かすことのできないテーマである。人間なら誰しも欲望があり、その欲望に日々対処しながら生きているのだから。
フランシス・ベーコンのニューアトランティスはその一つの例である。ベーコンは、近代化学の父ともよばれる科学者で、彼のユートピアであるニューアトランティスは科学ですべてが解決されてゆくという世界であった。人間のとどまるところを知らない欲望に、科学で対処しようとしたのだ。
あの有名な古代ギリシャ哲学者プラトンも独自のユートピア像を描いていた。彼は、古代ギリシャで発達していたポリスというコミュニティを理想的なユートピアにするためには、人間の欲望にどう対処するかが鍵だと考えた。そこで欲望と気概を競い合わせ、欲望を節制へと変えること、性的欲望を活用することを提唱したわけだ。具体的には、婦女子を共有・有効活用すること、効率のよい保育園を作ることを考えていたという。
19世紀の社会思想家シャルル・フーリエもそのようなユートピアを考えていた。彼は、調和のとれた社会の実現のためには愛欲と食欲を抑圧せずに解放することが大切だと述べた。具体的には、単婚制からの解放、多夫多妻制の推進などである。
人間の欲望に根ざしたユートピアならば他にもたくさんある。例えば、ドラえもん。ドラえもんの生きる22世紀は、タケコプターやどこでもドア、タイムマシンなど夢のようなひみつ道具に囲まれている。そう考えるとドラえもんの世界もユートピアである。未来
の世界における技術の進歩に期待する我々の欲望に応える形で藤子・F・不二雄先生が創り出したユートピアである。これは科学技術によってすべて解決されると提唱したベーコンのユートピアの現代版ともいえるのではなかろうか。ハリーポッターの魔法の世界など
も、もちろんユートピアである。

Ⅳ.講義をふまえて~これからのユートピア~

しかし、そう考えると、人が100人いれば100通りのユートピアがあり、完全無欠のユートピアなどないこととなる。そこで私は、まず主観的な視点で、自分にとってのユートピアとは何なのか。そして次に客観的な視点で、現在の世界、そしてこれからの世界
のニーズに合ったユートピアとは何なのか。そういった2つの視点でユートピアについて考えてみようと思う。
まず、主観的な視点で見た場合。自分にとってのユートピアである。それを素直にこの場で書くのは少しためらわれるが、恥をしのんで書いてみよう。自分は昔から、そして今でも人とふれあうこと、人を喜ばせること、人が感動しているのを見ることが好きだ。言うなれば、優しさや誠心、愛といった人間のもつ美しさが大好きなのだ。自分にとってのユートピアとは、そういった人間のもつ美しさがあふれた世界である。争いや差別、憎みや妬みなどは存在せず、人間の優しさや誠心、愛によってすべてが解決し、皆が幸せに生きていけるような、そんな世界。この世界は完全に私個人の欲望がこめられた、主観的な世界である。しかしそうなればいいなと本気で思う。
次に、客観的な視点でみた場合。現在の世界、そしてこれからの世界のニーズに合ったユートピアについて考えてみようと思う。はっきり言って、現在の世界は閉塞感に満ちている。世界は科学技術とともに生きていくという決断を下してから今まで、がむしゃらに科学技術の発達に心血を注いできた。障害にぶつかった時もあったが、それもすべて科学技術でねじふせてすすんできた。その結果人間は、地球を傷つけるというとんでもない、とりかえしのつかない過ちをおかし、自分たちの未来を自分たちの手で不安の谷へと突き落としてしまったのだ。それだけではない。人間は、科学技術によって自分の心という目に見えないものの、非常に大切な領域を傷つけてしまっている。科学技術の進歩がもたらした代償は、あまりにも大きかった。その反省から、現在すこしずつではあるが科学技術に依存し過ぎている生活から脱却しようとする動きが広がっている。この動きはこれから
さらに広がってゆくだろう。それから、断っておくが、私は科学技術を憎んでいるわけではない。私自身も科学技術の恩恵を多大に享受した生活を送っているし、ありがたいとも思っている。ただ、科学技術に頼りすぎていると思うだけだ。科学技術に頼った生活が諸
刃の剣だとわかった今、すこしずつでもそこから脱却する努力はすべきなのではないだろうか。そう思っているだけなのだ。
そして、現在の世界、そしてこれからの世界のニーズに合ったユートピアを読み解くにあたってもう一つ着目すべきだと私が考えていることは、平和である。人間は、この世界に誕生してからというもの、つねに戦ってきた。最初は生きるため、愛するものを守るた
めの戦いだったが、時を経て、いつの間にかその目的は「自分の力を誇示するため」「自分を有利にするため」「目障りなやつを消すため」・・・そんなものに変わっていた。本当にそのようなもののために戦う必要はあるのだろうか。それらは人間の命を犠牲にする
ほど尊いものなのだろうか。二度の世界大戦という悲しい歴史を経て、そういった疑問を抱く声、反対を表明する声は確実に大きくなってきた。まだまだだが、少しずつだが、確実に世界は変わっていっている。そんな現在の世界、これからの世界のニーズに合ったユートピアとは、科学技術といった「剛」の要素と人間や自然といった科学技術では完全に支配できない「柔」の要素が絶妙に融合し、共存している、争いのない世界。これだろう。

Ⅴ.考察

私はこのレポートを書きながら、「人間世界」を強く意識した。いつの時代も人間は人間である。欲望を抱き、死を恐れ、人を愛し、憎み、未来を意識し、ユートピアを思い描く。しかし、時代は、過去は、歴史は、人間に大きな影響を及ぼす。もしかしたら、人間
ができることなんて、生きてゆくことだけなのかもしれない。そして、人間に許されたことなんて、過去から、歴史から、学び、考え、ユートピアを思い描き、協力し合って未来を創っていくことだけなのかもしれない。私はこのレポートに中で「人間ならだれしも」
といった表現を何度か使った。人間ならだれしもユートピアを思い描く。しかし、思い描くユートピアはひとりひとり違っているだろう。しかし、「人間ならだれしも」思うものがある。感じるものがある。考えることがある。全世界の人々が納得するようなユートピ
アの構築、実現にむけては、「人間ならだれしも」。その言葉が鍵になっていくのではないだろうか。人間ならだれしもユートピアを思い描くのだから。

そう、ユートピアを実現することは可能である。

 

 

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