社会的芸術家としての尾崎豊「社会への反抗」(2013年6月ごろ、西南学院大学1年在学時)

2018/09/09

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 1.人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば

尾崎豊を知っているだろうか。1980年代を中心に活動したミュージシャン、シンガー ソングライターである。まあ、1980年代に活動していたミュージシャンならほかにもた くさんいるだろうし、その中でも尾崎豊に比肩するくらいのセールスを記録したミュージ シャンはいるだろう。

しかし尾崎豊は普通のミュージシャンではない。何が普通では無い のか。それは彼の人生を振り返ってゆけば自ずと見えてくるだろう。

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尾崎豊は1965年東京都練馬区にて尾崎家の二人兄弟の次男として誕生した。幼稚園か ら小学校5年の1学期まで練馬で育つも、1976年8月に埼玉県朝霞市へ転居。練馬では 家族4人都営住宅での手狭で裕福ではないながらも自然と家族の愛に包まれた生活を送っ ていたが、やはり都営住宅での四人暮らしは手狭であるとの考えから朝霞に家を建てての 引っ越しだった。

そんなすくすくとまっすぐに育っていた豊に、人生における最初のター ニングポイントが訪れる。引っ越しに伴う転校で朝霞の小学校に転入すると、転校生とい う理由でいじめと仲間はずれにあい、登校拒否児童になってしまうのだ。しかし、その間 に兄の使わなくなっていたギターを練習し、上達する。また、習っていた空手のおかげ か、いじめのボスを打ち負かし、いじめ仲間に認められ、自ら登校拒否を乗り越える。 「ユタちゃん」と呼ばれていた優しい少年は、理不尽な仲間はずれによる疎外感とその克 服を経て、この頃からだんだんと「尾崎豊」としての自我を身にまとってゆく。

そのあと 尾崎は学級委員長になるくらい人気者になるものの、やはり朝霞の転校先の仲間には完全 には馴染めず、中学校は練馬の中学校への越境通学を希望。親もそれを認め、中学校は練 馬の中学校に通うことになる。

尾崎が通うことになった練馬東中学校は代々練馬区で最強の不良グループがいることで 有名だった。尾崎もその環境の中で不良になってゆき、喧嘩やナンパ、バイク、酒、タバ コに明け暮れる毎日を過ごす。それは確かに非行だが、尾崎にはこの頃から既にそういう 悪さをしながらその自分を客観的に見つめ、作品へと昇華する才能があった。そんな才能 を代表する作品は「15の夜」だろう。尾崎は非行の傍らでも音楽はしっかりと続けていたのだ。そして、そんな不良だったにも関わらず小学校で学級委員長を務めていたのに引き続き、中学校でも生徒副会長を務める。それは、尾崎が、先生を含め、だれにも物怖じ することなく自分の主張をぶつけることができたからだろう。そして、尾崎の主張は大抵 生徒の主張を代表していたからだ。そんな尾崎のパーソナリティーは「15の夜」のテー マとなった家出事件にもにじみでている。この事件の契機は、頭髪検査にひっかかった友 人の髪を、有無を言わさず無理矢理ひどく、短くしたという先生の行動に尾崎が激怒。先 生に食ってかかり、仲間とともに家出したという事件である。

高校では、青山学院高等部に進学。母親の、大学進学に苦心しなくていいようにという 希望だった。陸上自衛隊少年工科学校の一次試験にも20倍の競争率を突破して合格して いたが、髪を短くしなくてはならないという理由で蹴った。高校で尾崎はバイトを 始めている。ピアノが欲しかったのだという。繰り返される学校での素行不良による親の 呼び出し。これ以上親に迷惑はかけたくないというのもあったのだろう。バイトを二つ掛 け持ち、毎日家に帰るのは最終電車。そんな日々が続いた。また、高校で尾崎は 「NOA」というアコースティックバンドとして初ステージを経験している。

学校生活では、喫煙による停 学2回、飲酒、暴力事件による無期停学1回。しかしその無期停学の間に尾崎はCBSソニ ーのオーディションを受け、合格。16歳のときだった。その後アルバム「十七歳の地図」 をリリース。セールスは伸び悩むも、音楽評論家からの評価は高く、音楽雑誌では早くも 特集が組まれる。一方で高校の無期停学が解ける。しかし、出席日数が足りず、留年が決 定していた。先生からの言葉は「学校に残れているんだから、感謝しなさい。」何に感謝 すればいいのか。尾崎は自主退学を決意する。

1984年3月15日。青山学院高等部の卒業式の日に新宿ルイードにて初ライブを行う。  その後口コミにより人気が出て、3rdシングル「卒業」の過激な歌詞が話題となり、2nd アルバム「回帰線」はオリコンチャート初登場一位を記録。「社会への反抗・疑問」、 「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスコミからは「十代の教祖」「若者のカリス マ」などと呼ばれるようになる。本人はそうした呼称を嫌っていたと言うが、尾崎の歌は 実際に十代の気持ちを代弁し、その心をつかんでいった。「尾崎豊」は校内暴力や学生に よる喫煙、飲酒が横行していた時代と相まって一種の社会現象ともなる。十代最後の日に 3rdアルバム「壊れた扉から」をリリースし、ヒット。同時期に行われていたツアーも満 員。人気は絶頂を迎えた。

 

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2.半分大人のSeventeen’s map

このレポートのテーマは「社会への反抗」である。そこで僕は尾崎豊を取り上げること にした。なぜ尾崎豊なのか。

僕が思うに音楽とは想いを伝える手段である。尾崎は今回の テーマである「社会への反抗」の想いを歌で伝えたからだ。その例をいくつか、彼の歌詞から挙げてみよう。

否が応でも社会に飲み込まれてしまうものさ

若さにまかせ 挑んでくドンキホーテ達は 世の中のモラルをひとつ 飲み込んだだけで

ひとつ崩れ ひとつ崩れ すべて壊れてしまうものなのさ

あいつは言っていたね サラリーマンにはなりたかねえ

朝夕のラッシュアワー 酒浸りの中年達

ちっぽけな金にしがみつき ぶらさがってるだけじゃ NO NO 救われない

これが俺たちの明日ならば

午後4時のサイレンが鳴る 心の中の狼が叫ぶよ

鉄を喰え 飢えた狼よ 死んでもブタには 喰いつくな

(「Bow!」より)

 

卒業して いったい何解ると言うのか

想い出のほかに 何が残るというのか

人は誰も縛られた かよわき子羊ならば

先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか

俺たちの怒り どこへ向かうべきなのか

これからは 何が俺を縛りつけるだろう

あと何度自分自身 卒業すれば

本当の自分に たどりつけるだろう

仕組まれた自由に 誰も気づかずに

あがいた日々も 終わる

この支配からの 卒業

闘いからの 卒業

(「卒業」より)

冒頭にも書いた通り、尾崎豊はその経歴、才能から言って普通のミュージシャンではな かった。しかし、尾崎は特別でも、教祖でも、カリスマでも何でも無い。ティーンエイジ ャーのころにだれでも思う、大人や社会への「疑問」、「反発」を歌っただけだったの だ。たまたまギターが好きで上手で、歌が好きで上手で、言葉を紡ぎ出すことができた。 そんな普通の少年だったのだ。だからこそ世のティーンエイジャーたちは皆彼の言葉に共 感した。当時は「社会や大人への反発を歌うシンガー」としてマスコミから位置づけら れ、「少年たちを非行に煽動する不良の代表」として大人達には敬遠されたが、彼もまた 一人の普通の少年であったのだ。

「社会への反抗」。それは若い頃にはだれもが抱く感情であるが、皆大人になり、社会 に染まってゆくしかなくなってゆく。そしていつの間にか自分自身がかつてあれほど憎 み、なりたくないと思っていた、そんな大人に、そんな社会の一員に、なってしまってい る。さらに自分ではそうなってしまっていることに気づくことができないのだ。尾崎の歌 はこれまでも、そしてこれからもティーンエイジャーたちの心を支えてきた。そして、大 人たちに、社会に、大切なこととは何なのか、それを伝えているような気がしてならない のだ。

「俺はただ自由になりてえだけなんだ。俺はもう偽善的な支配なんかぜってえ受けやしね えんだ・・・。そうだろ?自由じゃなけりゃ意味ねえんだよ。お前らほんとに自由か!? 腐った街で埋もれてくなよ。俺たちがなんとかしなけりゃよ、なんにもなんねえんだ よ・・・。」

 

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参考文献

http://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎豊 (Wikipedia「尾崎豊」)

http://www.ozaki.co.jp (マインドスケープ尾崎豊オフィシャルサイト)

http://www.ozakiyutaka.jp (ソニー・ミュージックレコーズ尾崎豊特設サイト)

KAWADE夢ムック「尾崎豊」 (河出書房新社)

NOTES~僕を知らない僕~1981-1992「尾崎豊」 (新潮社)

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