社会的強者と弱者について:「同じものでも、こんなにも見え方は、考え方は変わってくる」

2018/09/09

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先日非常に社会的に興味深い事象に遭遇した。

電車の中で、酔っ払ったおばさんが楽しく喋っていた女の子にいきなり「うるさい」と女の子たちを怒鳴って叩いた。

女の子たちは萎縮しちゃって、何も言えてなかったけど、それを見てた外国人の男の人がいきなりその女の人に「女の子たちしゃべってただけなのに、うるさいってなんだよ。うるさいのお前だよ」って。片言の日本語で、ガツンと。
その女の人は何も言い返せてなかった。

この事象を目の当たりにして、自分が感じたのはまずその外国人の人への敬意。そして何も言えなかった自分への嫌悪感。ただ、果たしてその感情は正しかったのだろうか?

例えば、このような仮説が成り立つ。

「外国人の人は、自分が大きく強そうな男で、相手が女性だったために反論したのみではないのか?」

→相手がもし強そうな男性だったらばどうだっただろうか?相手を見て自分の態度を変えていたかもしれない。結果的に自分が敬意を、称賛を浴びる体制を、相手は女性で、被害者が女子という状況をうまく利用して最小限のコストで作り出したとも言える。相手の状況まで注視しないとこの状況はかけるリスクは可変なのに得る便益は一定なように見える。ただ、明らかに相手がヤクザだった場合と女性だった場合ではリスクの大きさが違いすぎる。今回のように後者の場合であったらば比較的小さなリスクで正義を行使できたであろう。もし前者の場合にも同じ行動をとっていれば非常にリスクは大きくなるが、もしヤクザの人を黙らせることができたならその称賛度合いは自ずと高まる。そして真の正義として受容されていたと思われる。ヤクザが社会的に強いのかという議論はさておき、強力ながらいかにも悪人というような相手を倒すということは社会的評価として議論の余地なく自身にとっての便益は大きい。

この状況はあくまで仮説だが、外国人の男の人の中で無意識に「この人は自分よりも社会的に弱い(物理的にケンカになっても勝てそう。子供達に怒鳴り、叫ぶというモラル的にどうかと思われる行為を既にしてしまっている。さらに酔っ払っている。)」という判断を下していたのではなかろうか。ということも考えられる。

つまり自信を持って自分の正義(おそらくそれは社会的に正しいと思われる)を行使できる状況にあるという意味で外国人の男の人はこの場合社会的な強者と言える。強者はこのようにしてまた敬意を受け、弱者は負けていく。
このような政治的構造で考えることもできる。

女性の人も、その日もしかしたらすごく嫌なことがあったのかもしれないのに。本当にその女の子たちの話が耐えられないくらい打ちひしがれていたのかもしれないのに。

社会的正義とその行使状況における強者と弱者の区分はあまりにpracticalで、情状酌量の余地を残さない。

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