JITTERIN’JINNの「プレゼント」が耳に残って

2018/09/09

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今年のGWも終わりましたね。
皆さんのGWはどんなGWでしたか?

僕はそれほど長いGWなわけでもなかったので東京に残って友達と会って遊んで、、、
という何をするわけじゃない日々を送っていたのですが、非常に楽しいGWでした。
地元から友達が東京に来たりしてたこともあって自分の東京観光も兼ねていろんなとこ行ったりね。
ある日は友達と昼過ぎからまったり遊んで遅くに帰ってきてさ、夜中にふらっと、小腹が空いたねなんてことにつけてくだらない話をしながら駅前のラーメン屋さんに行く。みたいなね。すてきよね。

そん時の目的って言ったらなんだろう、って考えてみる。
そもそも目的思考で捉えることすら馬鹿らしいけど、やってみる。
なんとなく友達と時間を共有すること、夜中のラーメンとか最高だよねってそんなものを求めていくこと、食欲だったり心の栄養だったりかもしれない。
結局これという明確な判断基準もないまま選択している自分に気づいて、まあいいやってなって終わる。

なにをするわけじゃなくラーメン頼んで適当な話しながら食って気になったBGMをShazamして。んで、帰り道わざと遠回りしてそのBGMの話で盛り上がる。みんなその曲が気になってたみたいでさ。

ラーメンを食べるためにラーメン屋さんに行くという目的はラーメンを食べることが出来たという事実に気づくとすり替わる。そしていつの間にか1番の収穫は素敵な曲に巡り会えたことになってる。

目的となり得るレベルくらいの次元の物事は通過点に過ぎないのかもしれない。
目的と認識しきれないくらい、人智では共通点を見出せないくらい、偶発的要素を孕んだ意外性のある物事こそが生きる意味となり得るのかもしれない。それが本質的な目的となり、最終的にはゴールとなり、満足や幸せになっていく。

同じ文脈で考えてみると、さっき出なかった夜中にラーメン屋に行くことへの明確な答えは、出なかったからこそ尊いのかもしれない。
腹が減ったからとか、友達に言われたからとか、明確にはっきり答えとして出てきてしまうレベルくらいの次元の物事は通過点に過ぎないのだろう。はっきり答えとは言い切れないけど気づけばやってしまう衝動の先にある何か。それが本当の答えなのかもしれない。

本質的な目的や本当の答えは自分を超えて行った先にある。

そこに真理がある気がする。
目に見えるもの、認識できるもの、言葉にできるものを増やしていくこと、それを繋いでいくこと、それをフレームワークとして生産に充てていくこと。それらが社会的人間活動だとしたら、そこはまだ枠の中でしか生きられていないし可能性は枠の中で完結してしまっている。
その枠の中でいかに上手くやっていくかということは人と人の間でしか生きられない人間が経済社会で生きる中では金銭的、立場的、精神衛生的などの観点から見ると非常に大切だけど、そこに本当の幸せや満足感、しいては新しい世界は生まれない。
本当の幸せや満足感、しいては新しい世界は枠の中にはない。目に見えないものを大切にすること、愛でること、動くこと。信じること、愛すること、繋いでいくこと。そこらへんが偶然を生む。偶然は必然となったりする。時に奇跡と認識されることもある。偶然、必然、奇跡。そう、それらは自分の枠をどれくらい超えられたかの主観的な認識でしかない。毎日繰り返される日々の中偶然は起こり、必然に物事もまわってゆく。そしてときに奇跡は起こる。
美しさや素敵な笑い方に微笑みかけられるセンスや心の瞳を養うことは無意味なようで一番大切なこと。
そんな毎日の中で、枠を超えていくこと、枠を超えた先にある喜び、枠の中にいることの馬鹿らしさ、大切さを知っていく。
みんなそれをわかってるようで忘れてる。忙しさの中で忘れてる。
まだ20歳の若造だけど、そんなことをずっと思ってる。どうにかしたいと思ってる。

何気ない1日の中でそんなことを感じている自分は社会的芸術のアプローチをしていくって夢が定着していることを感じて安心するけど、そんな夢を言語化できていることを幸せに感じたりもしてる。嬉しいねー。すべてに感謝やなあ。
同時に背中も押される。がんばろ。
そう、がんばらんといかん。まだ何もできてないもんね。

みんながそんなことを思えたらいいんじゃないかなって思うからもっと頑張るよ!
枠の中で上手くやっていく。枠の中で結果を出す。
時に目を閉じてみる。耳を澄ましてみる。そこで感じたことを表現して枠の中に繋げていく。

そんなことをやっていきたい。

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