アーティスト、ビジネスマン、そして社会的芸術家としてのものの見方

2018/09/09

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「同じものでも、こんなにも見え方は、考え方は変わってくる」

これは一つのものを見たときの反応が様々な価値観や自分の心境によって制限されるということを表した言葉である。
そんなありがちな言葉で表現され、日常の中で埋没している「意味」をみたいなものを、俺は今から、一つの経験を二つの見方、そして考え方で解釈し、それをブログという形で弾きだしたいと思う。

その二つの見方、考え方というのは、「アーティスト的な見方、考え方、脳の使い方」とか、「ビジネスマン的な見方、考え方、脳の使い方」と呼べるものかもしれないし、俺が自分の将来のために必要なものとして同時期に並行してやってきた二つのインターンの中で見いだそうとしてきたもののような気がするし、見出せつつあるものなのかもしれない。
そして、何より、ブログを進化させるに当たって必要なものなのかもしれない。

これまでは、ブログという表現を「ただただ自分の想いを吐き出す場所」として認識していたし、以前のエントリーでも書いたように、そのやり方が創造の純度を保った芸術としての姿だと思っていた。しかし、それは社会的に意味づけされた外的な意味に基づいた自分のプライドから出た意見にすぎず、芸術の「べき論」みたいなものであることに気づいたし、そういったものに凝り固まることが最も恐ろしいことであるということに気づいた。
最も重視すべきは結果であり、内的な意味に基づいた社会的意義であり、自分の心である。その考え方からいうと、本質的に大切なのは、「心を揺さぶる」という自分の心の中に刻まれた芸術の内的な意味に基づいた社会的意義の最大化である。
そう考えたときに、自分はこの先どこかのピリオドでそのブログへの、表現への向き合い方を変えなくてはならなかっただろう。それは今である。そう考えている。その変化は「社会的芸術論」という論を提唱し、その実現を自分の人生の夢として、その論を道しるべとして、「社会的芸術家」として生きて行くに際して必要なことである。
思うに、「社会的芸術家」としての二つの見方に存在しているのがアーティスト的な見方、考え方、脳の使い方」や「ビジネスマン的な見方、考え方、脳の使い方」である。その二つの折衷したいい感じのバランス感覚を保ち続けることが社会的芸術家のミソであると思っている。そういった意味ではハイレベルなgeneralistであるべきだし、それぞれの見方、考え方、脳の使い方で書いた文章を以下に示したいと思う。イントロが長くなってしまったことは悪しからず。

【アーティスト的な見方、考え方、脳の使い方で書いた方】

→これが主にこれまでの自分のブログのスタンスで、基本的に自分が生きてきた感じ。ただ、アーティスト的といってもただ単に自分の想いをボコボコ何も考えず吐き出しただけで、それは表現と言えるのかどうかは疑問が残る。(というよりも現状それは表現ではないと思っている。)

自分は「誰かの心を揺さぶるためのもの」が芸術と定義しているのだが、その定義に沿って考えるのならば、「表現」というものは誰かの心を揺さぶるものであってしかるべきである。自分のこれまでのブログの在り方は「表現」であることができたのだろうか。その疑念は拭えない。

答えを用意するならば、”sometimes, yes. but almost all time, no”というべきだと思う。

「純一くんの言葉がすごく好きです」とか、「河田のブログ、大好きだよ」って言ってくれた人もいた。その言葉を聞くと、すごく幸せな気持ちになる。自分が求めているものはこれで、「表現」とはかくあるべき。そう思う。ただ、俺はその言葉に常に応えることができてきたのだろうか。それはない。なぜか。
確かに、俺は常に何かを見て、聞いて、経験して、そこから得た感情を言語化するのは上手い方だという自覚がある。比べるものじゃないが、そう思う。そのプロセスの中には、何かを感じ取る感性みたいなもの、そしてそれを形にしていくという流れがあると思うけど、まず絶対的に形にしていく能力が圧倒的に足りない。

「音楽で伝えられないものがあるから写真を撮る、写真でも伝えきれないものがあるから言葉を綴る」

みたいなことを尾崎豊は言っていたけど、本当にその通りで。俺には言葉しかない。

自分の頭の中で解釈を言語化してそれを言葉という形にするのは人間の表現の基本的な形態であり、日欧的にコミュニケーションとしてやっていることである。それを「表現」の域に持っていくためには多くの労力とスキルを要するように思う。

コミュニケーションとして浪費されていく言葉たちの中で、その簡便性から多く溢れ返る言葉たちの中で、本当にその言葉一本で「表現」として生き残り続けることの難しさよ。

誰の言葉に自分は心を揺さぶられるのか。そう考えてみると、俺が心揺さぶられる言葉を発した人たちは皆、基本的に「何か」を残していた。

心を揺さぶる音楽、映像、プレー、姿勢を。そういった「何か」を。そう、生き様を。

まさに、言葉で伝えられないものがあるから写真を撮る、写真でも伝えきれないものがあるから音楽を作る。
だから、俺は形にしていく能力をつける。その幅を、広げる。音楽だって作るし、デザインだってする。写真だってとるし、映像だって作る。一通り、それらの表現の表面を撫でて、エッセンスを掴み、組み合わせる。自分なりの表現の形にする。それが心に響く「表現」へと繋がると信じている。
ただ、果たして自分が継続的に心に響くものを想像できていない理由は果たしてそれだけなのであろうか。決して、そういうことはない。表現のプロセスには、形にする前に「感じ取る」というフェーズが存在しているし、言葉という表現だけで心を揺さぶっている人もいるような気もする。
「感じ取る」というフェーズへのアプローチに関しては、正直限界があると思っている。ICU Speaker’s Competitionで俺が思った「届く声の限界」みたいなものは確実にあると思うから。だから、俺は俺なりに、俺にしかできない見方で世界を見ていきたいと思っているし、その見方はやっぱり俺にしかできない。その見方をいくら伝えても、そう、届く声には限界がある。俺がどんなに頑張っても、俺と全く異なった感性を持った人、心を響かせることのできない人には響かせることができないし、どんなに幸せににしてあげたいと思っても、できない。
じゃあどうすればいいのか。その答えは非常に難しいし、自分も迷った。割り切って、周りの、そばにいてくれる人、そして自分の声が届く人、心を揺さぶることができる人を大切に、その声を確実に届けていくということも正しい解の一つだと思うし、それでも幸せだと思うから。けど、早くに夢を見つけた者の、見つけることができるという恵まれた環境に置かれた者には、義務があると思っている。ノブレスオブリージュ。そう、自分の声が届く人を広げる努力をし、多くの人を幸せにしていくという義務が。俺は早くから夢を見つけることができたし、その夢を探せる恵まれた環境に生きてきた。だから、だからこそ、その義務を果たさねばならないのだ。
つまり、求められているスタンスは、自分の声の届く限界を認識しながら、その枠を超え続けていくことに挑戦し続けること。そのためにまずは上記に述べたように自分の持てる感性の枠の中を余すとこなく表現するための能力を身につけるわけだし、自分の感性の限界の枠からはみ出た人、つまり自分にない感性を持った人を巻き込んでいくことが必要だし、その人たちの表現が最大限に発揮できる環境を整えるべきである。それから、そういった施策をすることで、自分の声が届かない人たちにも自分の声の残痕くらいは届くように、あるいは自分の声を受け入れた結果見せることのできる世界を見せることで感性とはまた違ったところで自分の声を受け入れてもらえるようにすることが大事である。
確かに、この世界には言葉だけで人の心を揺さぶることが継続的にできる人もいるかもしれない。

ただ、それは非常に一握りだし、不安定で、単発的である。多くのアーティストはそこにいる。偉大なアーティスト含め、多くの人は「何か」を残し、結果としてその言葉に力をもたせている。

それがただ一つの答えだし、その答えを実行することで自分の表現が向上するということは目に見えている。

これまで俺が感性に任せ、センスに任せ、想うことをただただ届けるというスタンスでやってきた表現の中で心を揺さぶることができたことは自身の感性の確かさを証明することには役立ったかもしれないが、それはただのアーティストどまりである。これからはその感性をより多くの人に届けていかなくてはならない。

だからこそ前述したようなスタンスで、しかるべき施策を踏んでいく。それは感性を超えて、アカデミックな手法も、ビジネスライクな手法も含んでいるだろう。(「自分の感性の限界の枠からはみ出た人、つまり自分にない感性を持った人を巻き込んでいくこと、その人たちの表現が最大限に発揮できる環境を整えること、それから、そういった施策をすることで、自分の声が届かない人たちにも自分の声の残痕くらいは届くように、あるいは自分の声を受け入れた結果見せることのできる世界を見せることで感性とはまた違ったところで自分の声を受け入れてもらえるようにすること」これらはまさにビジネスそのものである。そしてビジネスにおけるコンセンサスの形成みたいなものは基本的にアカデミック的な手法に通ずるものが大きい。)
よりよい「表現」のために。そしてその結果多くの人の心を揺さぶることで、多くの人を幸せにするために、どうすればいいのか。それを突き詰めて考え、導き出した方法論が、「芸術における「表現」の社会的意義へのすり寄せ及び芸術的エッセンスの社会への注入による日常の活性化」ということであり、それが「社会的芸術論」である。

 

【ビジネスマン的な見方、考え方、脳の使い方で書いた方】

→「芸術」や「表現」の定義同様、ここでも自分の「ビジネスマン」の定義を書くべきだと思う。自分の「ビジネスマン」の定義は、「(しかるべき施策を売って)世の中に、ものの価値を最大化して提供できる人」である。お金というのは単に価値を測る単位であり、ビジネスというのは、基本的にはお金ではなく価値を取引している。どれだけ価値を最大化して提供することができるか。それがビジネスの目的である。という目的に沿って考えるならばこの定義にも納得していただけると思う。本質的な意味でのビジネスマンの仕事というのは価値を最大化し、提供することなのだから。
そのフローの中に、
まずは提供したい価値を獲得し、(生産、取引)

市場概念や需給関係、消費者のインサイトを調査することで、その価値の大きさを知る。(マーケティング、リサーチ)

そしてそれをその価値に見合ったものに魅せる(広告)ことで価値を市場に広めていく。(広告、ブランディング)

そして最大化させた価値を提供していく。(セールス)その活動を円滑化させるべく施策を打つ。(経営、人事、企画)
といったものがあると思ってる。

忘れてはならないのは、このマクロなフロー、世の中に価値を提供するためにやっているという信念である。これは「芸術」や「表現」が、結果や内的な意味に基づいた社会的意義、自分の心から派生していくべきだという考えと等しい。

大切なのは「価値を最大化して提供すること」であり、その結果として誰かの生活になかった価値を与え、質を高め、幸せにしていくことである。

そして市場原理に則って、価値を代替してくれる貨幣によってまた自分も十分な価値を購入することのできる状況を作り出すことである。決して小さな価値を大きく売ることで自分が得をすることを目指すわけはないし、誰かから搾取するわけでもない。

つまり、常に価値ベースであり、そういった意味ではアーティスティックな仕事である。そう、「価値を最大化して提供するということ」はつまり、「心を震わせる」ということである。心を震わせることができるということは大変大きな価値なのだから。
ビジネスをそういう見方で見るようになって考えが大きく変わった。そういう見方から考えると、前述したように、アーティスティックな仕事のフローの中の、自分の声を最大化するという仕事のためにビジネス的なエッセンスが使われたように、ビジネスにおけるフローの中でも常にクリエイティビティーや感性は必要とされるし、そしてそれを形にすることが求められるし、それはビジネスにおいては「表現」ではなく「価値」と言い表すことができる、ということができる。

顧客に、継続的に価値を届かせること。そのためにはアーティストと同じく、自分の声の届く限界を認識しながら、その枠を超え続けていくことに挑戦し続けること。

そのためにまずは上記に述べたように自分の持てる感性の枠の中を余すとこなく価値に変えていくための能力を身につけるわけだし、自分の感性の限界の枠からはみ出た人、つまり自分にない感性を持った人を巻き込んでいくことが必要だし、その人たちの価値が最大限に発揮できる環境を整えるべきである。それから、そういった施策をすることで、自分の声が届かない人たちにも自分の声の残痕くらいは届くように、あるいは自分の声を受け入れた結果見せることのできる世界を見せることで感性とはまた違ったところで自分の声を受け入れてもらえるようにすることが大事である。
つまり、自分の定義においてはアーティストもビジネスマンも、同じようなことをしているのだ。言ってしまえばそれは当たり前のことである。

同じ世界の中で、同じシステムの中で、幸せという共通目的の達成のために生きているのだから。
となると現状の、主に精神的幸福を司る「芸術」と物質的幸福を司る「ビジネス」という構図はいかがなものだろうか。

かつての世界は物質的幸福にかけており、芸術が支配していた。そこから、必死に物質的幸福を追求してきた結果としてその幸福のバランスを崩し、人間は大事なものを見失ってしまった。

それが先進国の、「物質的には豊かなのに精神的には不幸せ」な状況が生まれてしまった。その処方箋として提示したいのは「芸術における「表現」の社会的意義へのすり寄せ及び芸術的エッセンスの社会への注入による日常の活性化」ということであり、それが「社会的芸術論」である、ということである。それによって芸術とビジネスのバランスは相互健康的に保たれ、人間の社会は物質的な幸福、精神的な幸福を両立した新しい歴史の時代を歩み出すことができるのではないかという期待もある。

 

【社会的芸術家的な見方、考え方、脳の使い方で書いた方】

→一番最初に書いた、アーティスト的な文章。次に書いたビジネスマン的な文章。そして最後は社会的芸術家的な文章。この形を創造するには非常に高いレベルが必要であると認識している。この形の「表現」を、「価値」を自分は目指しているのである。「社会的芸術家」という言葉自体自分が作りだした言葉、概念であるため、その言葉を常用している人はいないだろうが、「まさにこの感じ」というようなレベルで、バランス感覚で、「表現」や「価値」を生み出している人はいると思う。まずは自分自身そういった表現者、価値提供者になるということ。そこから始まる。
そのために自分は遊び、学び、価値を生み、「今を生きる」
そして、その両方のバランス感覚を有し、自在に使い分け、ミックスできる、そんな最強のgeneralistになるということ。最強のアーティストにならなくてもいい。最強のビジネスマンにならなくてもいい。ただ、社会的芸術家として安定的に心を揺さぶり、価値を提供できる、そんな質の高いアウトプットを担保した人になりたい。そして、その概念を広げ、アーティストとビジネスマンの相互協力の機運をつくる。社会的芸術家をその促進者とする。社会的芸術家自体の増加も促していきたい。それが結果として、より良い社会へと繋がるということは、感性的には確信の領域にある。それを社会的に自明のものとするために、アカデミックな世界で形成されたTheory, 「社会的芸術論」があり、それを基に作っていくこれからの自分の人生がある。

「     」

ここはまだ、自分には書けない。
けど、必ずいつか社会的芸術家として、書く。

 

とっても長くなったけど、これは自分に対しての宣言であり、

これからの道標。すごくだいじなもの。社会的芸術家としての、本当のスタート。

 

 

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