社会的正義に覆われた日常の中に隠された本当の気持ち:「同じものでも、こんなにも見え方は、考え方は変わってくる」

2018/09/09

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電車の中で、酔っ払ったおばさんが楽しく喋っていた女の子にいきなり「うるさい」と女の子たちを怒鳴って叩いた。

女の子たちは萎縮しちゃって、何も言えてなかったけど、それを見てた外国人の男の人がいきなりその女の人に「女の子たちしゃべってただけなのに、うるさいってなんだよ。うるさいのお前だよ」って。片言の日本語で、ガツンと。
その女の人は何も言い返せてなかった。

周りの日本人はただ見てるだけだったのに。
俺、自分が恥ずかしかった。あの人、かっこよかった。
そういうの心理学の言葉で「傍観者効果」っていうらしいけど、それ恐ろしいな。
そんなもっともらしい言葉でしゃーないことにしようとしても、どうにもならない。あの外国人の人が破った沈黙によって明らかになったのは、俺たちは本当はそれが正しいと思ってたこと。でも、それが言えなかった。それって、ただただ恐ろしいな。

俺、世界をよりよくしたいとか言ってんのに、何にもできんかかった。
ってか、酔っ払って人に怒鳴り散らして、ましてや叩くなんてこと、普通に考えたらおかしなことなのに、そのことにすら気づいていない自分がいたこと。それが何より一番恐ろしいことだと思った。

「周りの人が何も言ってねーし、まあいいや」
「誰かが言ってくれるだろ」
「なにしてんだ?!この人は、、、」
「ここは公共の場。裁くのは俺じゃない。周りの人がどう思ってんのかはわかんないしね。」
そういった感情が渦巻いていたように思う。
それが傍観者効果という名前でもっともらしく呼ばれてどうしようもないことのように扱われる。それが気に食わない。

結局のところ、あの外国人の人が言ってくれたことで、多くの人の、少なくとも俺の心は満たされた。心からすげーと思ったし、同時に自分の汚さに気づいた。そして、自分は本心ではそのおばさんのことをおかしいと思っていたことに気づいたし、その本心は日常の中で全く気付かずのうちに隠されていることに気づいた。これは果てしなく恐ろしいことのように思う。

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