日本人「バックパッカー」と本物のバックパッカーは違う

2018/09/09

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まだまだこんなことを言えるほど旅に行ってるわけじゃないけど、何度か旅に出ていくうちに気づいた事実に、

日本人「バックパッカー」と本物のバックパッカーは違う

ということがある。

 

これまで俺は幾つかの旅を経験してきた。

何となくの意味を振りかざして、かっこよさを求めて旅に出た最初の日本一周。
何かを求めて、何かを探して旅に出たタイへのバックパッカー。
目的を持って、自分をぶつけに旅に出た沖縄へのバックパッカー。
「何も求めるな」そう言い聞かせて旅に出た東南アジア周遊。
ただ楽しそう!そう思って旅に出た台湾へのバックパッカー。
そして本当の意味で何も求めずに旅に出た今回のベトナム。

旅への向き合い方はざっと言うと上記のような感じだけど、
だんだん重ねていくうちにそれは変わっていったものだし、
同時にものの見え方も変わっていった。
それは国に対してもそうだし、人に対してもそうで。
旅への向き合い方への変化や国に対しての思いの変化みたいなものも後々書いていきたいとは思うけど、
今回は旅をするうちに見えてきた、「人」について書いていきたいと思う。

言葉の定義

まずは海外に行く(別に海外に限った話じゃないのだけど簡易にすべく今回は海外と仮定する)という行為あるいはその行為をする人に当てはめられる言葉の定義を整理してみたい。

まず、「旅行者」という言葉がある。
基本的に海外旅行というものは自分の生まれ育った国から出ていろんなものを見て、食べて、いろんな人に会って。
基本的には娯楽の部類に入るものだと思う。
そんな娯楽的なものをそのまま素直に享受している人たちのことをここでは「旅行者」と定義する。

次に、「旅人」という言葉がある。この言葉はすごく曖昧で、ある人にとっては聞こえがいいものであると思う。
ストレスを晴らしに、観光をしに、意味もなく海外に行きたくてきた、そんな「旅行者」とは違うんだ。そんな思いも込められているように思う。

「バックパッカー」という言葉もある。俺も沢山使っているけれど、これもまた曖昧な言葉だ。多くの場合「旅人」と似たようなニュアンスで使われていると思う。

俺は単純に「バックパックを背負っている人はバックパッカーだ」という定義で使っている。
現にそれ以上でも以下でもないと思っている。
すごく便利な言葉だし、すごく使われる間口が広くなっているにもかかわらず、定義が曖昧な、危うい言葉だとも思っている。

「旅」が「旅行」と区別されたのは何故なのだろう。

コストが高く、ある程度お金がないといけなかった「旅行」、
そういった金持ちの道楽、あるいは娯楽としての意味が強かった「旅行」が、コストの低下によって、必要なのはお金よりもむしろ時間というふうに状況が変わっていくと、自由な時間が限られた社会人よりもむしろ時間に自由度が高い学生や体力的に自由度が高い若者の方が行くようになった。
さらに学生や若者が海外に行けるようになると、その目的は娯楽のみにとどまらず異文化に触れる中で行われる「人生勉強」的な意味が付与され、少ないコストで多くの経験をしようと試みる「旅」という形態が生まれた。

時に「旅」はリスクをも経験と置き換えがちである。

こんな記事をかつて読んだ。

心から納得である。
日本人「バックパッカー」は平和ボケしていて、にもかかわらず普段はミーハーである。
厳しい言い方をしたが、つまり安定感がないのである。
「旅人」、「バックパッカー」、そんな言葉が一人歩きして、
普段は存分にお金を使い、観光地を巡り、日本人同士で絡み、本当に自身の経験や学びにフォーカスすることができていないのに、時にリスクをリスクとも思わず「経験」としてフラフラとそこに踏み入ろうとする。
自分もそうだった。

でも、本当のバックパッカーはそんなことは決してしない。
旅慣れた人は的確に情報を集め、適正価格で安定的につくべきところをつく。おいしいもの、楽しい場所、いい雰囲気の宿など。
そしてそこで会った人たちとの出会いを大切にして、また新たな情報を得て新しい場所を開拓していく。
最低限のコストで最大限の経験や学び、出会いを得ながらお金をかけるべきところにはしっかりかけ、リスクヘッジもしっかりする。

そんなことを感じた。
日本の中で起こっている「バックパッカーブーム」みたいなものの中で生まれた多くの「バックパッカー」たちにこの声が届きますように。
そしてその人たちが本当の旅の楽しさを感じることができますように。

自戒も込めて。

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