信じるな。愛せよ。 深まるな。深まらせよ。

2018/09/09

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東南アジアの人たちは、外国人と見るとすぐにぼったくろうとするってイメージがあると思う。
それは間違っていない。
だけど、それはなんでなのだろうと考えてみよう。
すぐにいろんな理由が見つかるはずだ。
貨幣価値の違い。経済的豊かさの違い。
「外国人は金持ち」というイメージ、、など。
でも、そこに本当に愛はないのだろうか。
ぼったくろうとしてくる人は本当に悪なのだろうか。
違うと思う。
生きるためには金が必要であり、それを効率よく獲得するために、よりお金を持っていると思しきものたちからより多くのお金を獲得しようとすることは当然の選択であり、彼らの生きる術である。
とはいえ誰しも自分の資産をなるべく削ることなくサービスを受けたいものである。
経済市場原理において、基本的には同じサービスならばより安い価格で提供したサプライヤーが勝利する。
消費者心理としては常に、より安く良いサービスを受けたいと考えるものである。市場価格より高いものは排除されていく。
たとえその人たちよりも自分たちが豊かであったとしても、皆自分が可愛いから、タダで与えるなんてことはバカバカしいことだと考えるだろう。自らの資産にも限界があり、物事には適正価格というものが存在するのだから。
ぼったくりの深層には情報の非対称性が存在する。
ぼったくられる側には、そのサービスの適正価格がわからないから値段をふっかけられても確信を持って反論することはできない。
だから、「この人たちはぼったくってくる」との仮説のもとで当初提示された金額を疑って、値下げ交渉にあたる。
つまるところ、人に対して疑ってかかるのである。
優しくされても、「この優しさの裏には何かあるのだろう」と疑ってしまう。
そう、基本的にネガティブなバイアスを持って人に対応してしまうのである。
最初から初対面の人を全面的に信頼することは難しいことだし、リスキーでもある。情報の非対称性といったハードルが存在するのならなおのことだ。
でも、全くそんなつもりなく優しく、フレンドリーに接してくれる人もいる。
そんな優しさをも、ネガティブなバイアスや疑う姿勢は拒絶する。
そこにある愛に気づくことなく、拒絶してしまう。
俺はそれで一人傷つけてしまったような気がしている。
あの時の彼女の悲しそうな顔を、忘れることができない。
俺はどうすればよかったのだろう。
そう問うた末、俺は思った。

「信じるな。愛せよ。 深まるな。深まらせよ。」

信じるという事は基本的に受け身の姿勢だ。
信じたら裏切られることもある。
それならば、信じなければいい。
相手からgiveされるものを信じてしまわなければいい。
むしろ、自分の方から、与えてしまえばいい。
「欲しいもの」があるのなら、相手に優しくされる前から自分が優しくしてしまえばいい。その流れの中で、欲しいものを伝えればいい。
そうすれば「欲しかったもの」は、ただのものではなく、「自分が愛する人から受け取った、欲しかったもの」になり、その価値はぼったくられても相当するものになる。
「高かったけど、あいついい奴だからいいか。仕方ない。」
そう思えるようになる。
全ては愛することから始まる。
全ての人を愛する事、そうすれば誰も傷つかない。
愛して、その人の事を信じてしまうようになる事もある。
自分が愛していたスタイルから、気がつくと向こうにも愛されて、信じてしまうようになってしまうかもしれない。
そのように関係が深まっていくと、難しくなる。
自分は愛しても構わない。
でも、愛され、信頼されると、失うことが怖くなる。
自分がそういう風に深まってしまうと、身動きが取れなくなる。
自由に動けなくなって、やがて魅力を失っていく。
そう、深まってはいけないのだ。
自分がしていいことは、相手を愛して、
深まらせること。そしてそれを広い心で受け止め、愛し続けること。
信じるな。愛せよ。
深まるな。深まらせよ。
これは東南アジアにおけるぼったくりとの戦いの中で生まれたジレンマの中で考えたことだけど、それだけにとどまらず、すべての人間関係で応用できるような気がしている。
こうしてまた、僕らは大人になっていくのだろう。
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