さみしさの理由⑦

2018/09/09

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8月29日。
福岡に帰って見えた景色は、全く違っていて。
そのことの意味ををひしひしと感じながら書きました。

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誰とでも仲良くしようとする孤独

ここまでのエントリーで何度か「孤独」みたいなものについて書いてきたような気がするけど、誰とでも仲良くすることで、仲良くしようとすることで、生まれる孤独みたいなものもあると思う。

人間の集団適正数は150人だという。(ちなみにテナガザルは15、ゴリラは35、チンパンジーは65らしい)
それを超えると様々な問題が起こってくるとのこと。
そう考えるとまだ未熟な小学校とかの時にクラス内でいじめとかが起こるのはうなずける気もするし、成熟しても人間が常にある一定数のコミュニティを作り、守り、維持していくのもわかる気がする。コミュニティを絶えず広げていこうとする人もいることにはいるが、そういう人は本質的に心身ともに依存しているコミュニティというものはないような気がする。ポジティブな書き方をしたが、裏返すとそれは自分が心から信頼され、信頼することのできるコミュニティがないということになる。簡単な話、自分が外部を開拓している間に自分がいたコミュニティではその中の仲間が自分抜きで親睦を深めていっているのだから。外部への開拓、しいてはそれらの維持に時間を割かれるようになれば結局他のコミュニティへのコミット度合いは下がってくる。自分の身体はひとつしかないのだから仕方のないことだ。

やがて開拓から帰って、コミュニティに戻ってくると、なんだか違和感を感じる。みんなが変わってしまったような錯覚を覚える。でも同時に、変わったのは自分だったのかもしれないとも思う。

誰かと会うと何かを思い出す。その人の中に刻み込まれたかつての、いや、もしかしたら今も自分の中にいるかもしれない自分が自分を縛り付ける。記憶を蘇らせる。悲しさには誰も勝てやしない。

自分の本質がえぐられてゆく感覚を覚える。
それぞれのコミュニティーにそれぞれの自分の在り方があり捉えられ方がある。
自分はひとり。
過去の出来事、はじまりから終わりまでを知ってる。喜びさえも痛みが伴って。
誰かにとっての自分は常に自分であり続ける。変化しながら変化したくない自分がいるから。

孤独とは悲しさである。
人生は一度きり、自分は一人きり。
昨日の敵は今日の味方かもしれない。逆も然り。
愛した人に憎まれるかもしれない。
嫌いな人に好かれるかもしれない。
何かを選べば何かを捨てることになる。

自分らしく生きようとすれば常に悲しさはともにある。
自分らしく生きようとすれば常に社会を考える必要にせまられる。
社会のことを考えるとそこには人がいて、また誰かと出会い、誰かと別れていく。
出会いの喜びもさることながら、別れの悲しみはいつも心を引き裂くくらい悲しい。
それでも、それでも。

どう生きるかは人それぞれだけどみんな何かしらの心の葛藤を抱えている気がする。正しさなんてものはないかもしれないけれど、これだけは言えるのが、孤独であったとしても、一人であったとしても、自分の心を信じて生きていれば自分の心だけは信じられるということ。
自分の心を信じて生きていれば新しい人との出会いや共に時間を共有した人との別れも仕方ないと割り切れる。ひとつひとつの喜びや悲しみを感じながらもどこかそこから抜け出せる光を見出せる。きっといつか今感じた一瞬の喜びや永遠に思える悲しみもあれがあったおかげだと笑える日が来るのだろう。そんな心持ちでいられたらきっと新しく出会う人も、さよならを言わなくてなならない人も、依存することなく愛することができるような気がする。

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