教育について〜自分なりの「教育」という言葉の定義とそこから派生する想い〜

2018/09/09

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俺、実は結構教育にも興味あって、一時期教師になりたいと思った時期もあった。
けど結局なんだかんだやっぱ違うなあと思って。
大学に入った時は、自分のやりたいようにやってどれだけやれるか試したいと思っていたけど、教師も悪くないと思っていたから、同時に教職取って自分のやりたいことがだめでも教師になればいいなと思ってた。

最初に大学に入って教育に触れたのは友達の紹介で入った塾講師のバイトで、当時教育関係に関心のあった俺にとっては興味深いものだったし、そんなに負荷もないバイトではあったが、俺は子供たちに定型化された何かを教え、その出した答えにマルバツをつける仕事に何の魅力も感じられなかった。これがいわゆる教育なのかと思うと寒気がした。同時に自分もその枠の中でやっていたと思うと、盲目的に従っていたらどうなっていただろうか、とふと感じ、背筋が寒くなったん覚えてる。
教育は改善しなくてはならないなとは強く思った。

大学生活で自分のやりたいことをやっていくうちにいろんな人たちとの出会いがあった。Teach For Japanの人やデンマークの教育を研究している人、学校教育だけではなく、大局的な人間、人生の成長の一環として教育を捉えて自分で活動している人、、

2年生になりやがて教職も取りはじめたが、やっぱり違うなあと思った。塾講師をやっていたときに感じたもやもやとした違和感はいろんな教育観を持つ人と出会い、はっきりとしたものへと変わっていった。
教職課程で学ぶのは基本的に「教科書に書かれたことをいかに教えるか」ということだった。
これがまたクッソ面白くなくて。
俺がやりたかったのは子供たちに教科書に書かれていないことを教えることだったんだなあと思った。
「自分の一度きりの人生をいかに彩っていくか」「自分の心に従う大切さ」「広い世界を見る喜び」、、、
工夫すれば教師という立場からそういったものを伝えていくこともできただろう。
でも、あくまでは教師の本業は、現状、「教科書に書かれたことをいかに教えるか」。
俺は教科書に書かれていないような、自分の想いを表現して社会の上で結晶させたいんだと気付いた。
そういうような思考の形成にはこういった経験も役に立っていたのかもしれない。
俺は、もうみんな大学生にもなれば自分の頭で考えて自分の心で選択して人生を切り開いていく思考になっているとばかり思っていた。だけど大学に入って気付いた。みんながみんなそんなことを思って生きているわけじゃないということ。そしてそういった思考を持っている人はむしろ少数派であるということ。それはたとえ社会人になってもそうだった。
子供だけが対象なんじゃないなと思った。

教育っていうと子供のためのものなんてイメージがあるかもしれないけど、決してそんなことはなくて。
みんな誰しも常に向上の可能性を秘めていて、誰しも何か欠乏していて、何かを持っている。
人間として成長していくこと、個人として成長していくこと、人として成長していくこと、人類として成長していくこと。
それぞれ違うと思っている。

人間の成長には親や教師、友人といった周りの人たちから得る教育が必要だろうし、
個人の成長には自分の意志と想い、そして周りの人たちとの出会いから得る教育が必要だろうし、
人としての成長にはこの人だと決めた大切な人たちと成り立たせる暮らしから得る教育が必要だろうし、
人類としての成長には上記全てを集めて統合し昇華することで溢れ出してくる何かから得る教育が必要だと思う。

そう、どのフェーズにも教育は必要だと思うんだ。

自分は自分なりの教育のあり方を探っていきたいと思ってる。
それは芸術とかビジネスとか思想とか社会とか、そんなダイナミックでわくわくするイメージで溢れてる。

いわゆる「教育問題」は取り組みたい問題ではあるが今の俺には時期尚早だなと思った。
その前に俺にはしたいこと、しなくちゃいけないことが沢山あるから。

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