社会的芸術家とは、平たく言えば「感情と論理のバランスが取れた人」である

2018/09/09

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これまで、自分はこのブログにおいても、リアルの場面でも(よく深い話まで話す人に対しては)、「社会的芸術」という言葉を使ってきた。

それを表現するために多くのことを考えたし、多くの記事を書いた。

最近でいうとこれもそうだし、

過去に遡れば、これ(社会的芸術家の有用性について)これ(そもそも社会的芸術構想とは?)などがある。

 

ただ、もともとこの「社会的芸術」という言葉は、大学の研究において発表する際に学問的な用語として作り出したものであり、小難しい印象をあえて出していた。でも、それはしっくりきていたし、思考を深める上では役に立っていた。

しかし、実際にこの概念を使って世の中を良くしていくことが目的であるとするならば、この概念が難しいものであっては意味がない。そこで、それをシンプルに言い換えればなんなのだろうというのはずっと考えてはいた。

 

そんな中、そのヒントとなるものとの出会いがあった。

ZOZOTOWNを運営しているスタートトゥデイの理念に「いい人を増やす」というものがある。

「いい人というのはどういう人なのか」という定義として「想像と創造のバランスが取れた人」とある。これはZOZOの由来にもなっている(想ZOと創ZO)らしいのだが、まさに自分はこれこそが社会的芸術家であると感じた。

難しく色々といい始めればきりがないが、つまりそれは「感性で、感情で、物事を掴み取って想像を広げていく力」と「実際に現実を見ながら論理を組み立て、創造に落とし込んでいける力」の両立であると考える。

それはつまり、ジェネラリストであり、「グローバルエリート」であり、社会的芸術家に必要不可欠な力なのである。

「グローバルエリート」という言葉を使ったのには、教養やリベラルアーツとして表現されているその力、アート的思考やクラフト的思考、サイエンス的思考の、そのバランスが取れている人こそが、世界においては活躍しているとも言われているからである。

結局、世界で、その中でも特に今日本で、求められているのはバランスであり、「いい人」であり、「グローバルエリート」であり、ジェネラリストであると考える。

社会的芸術家とは、そこからさらに発展し、「アートとビジネス、アカデミア」の三軸に分けた社会における活動領域を、領域横断的に活躍できる人と定義づけた。

詳しくはここのあたり

 

 

 

また長々と難しくなってしまった感はあるが、どんどんと思考は研ぎ澄まされていっているように思う。あくまで、自分の考えとしては、理論や思考、思想やアカデミアは実践の場に応用されなくては意味がないと考えている。

それは決して人文学系の学問を否定しているわけではなく、それらの空を掴むような論理も実践の場に落とし込むレベルまでの作業をして行けば必ず社会で応用されうる。

自分のこの思考も、社会で使っていくためのものだ。自分の道しるべであり、武器なのだ。そしてこれで社会を切り拓き、よりよくしていく。
ある人が言っていた「社会人として、成果を出す上で最も大事なこと、それは思考プロセスだ」、と。

その思考を研ぎ澄ませることを、実際に行動に落とし込んだ時に成果を出すための、その練習を、その準備を、これまでもやってきたし、これからも、時間を使ってやっていく。

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