こんなにも暑い朝を思えばあの頃の自分が戻ってきた様な気がする

2018/09/09

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朝起きて、準備して、パッと外にでる。
ヘッドフォン装着して今日の気分に合わせて音楽を流す。
アパートの屋根の下から出た瞬間、熱いくらい強い日差しが差してくる。

ちょうど1年前の今頃、俺は沖縄にいた。
その頃は朝起きて海に行くってのが日課だったから、今日と同じように朝起きて準備するとすぐ外に出て行っていた。そして、今日みたいに熱いくらい強い日差しに迎えられていた。
不思議なことになんとなく今日チョイスした曲も沖縄で出会った思い出の曲だった。
そんなことも相まって、沖縄の記憶が一気に戻ってくる。
景色や音、感情が、すべて戻ってくる。

あの頃の自分は今の自分とは全然違っていた。当たり前か。
1年間のうちの変化は半端ない。東京に来てからのこの4ヶ月の間にもものすごい変化を感じるんだもんね。
でも、俺は一人じゃない。
俺の中にあるもの、俺と名付けているもの、心なのかな。そんなものはひとつじゃない。
つまり、変わってしまったと感じる自分は自分の中の一部に過ぎない。あるいは何人か、何個かあるうちのひとつの自分に過ぎない。
だって、こうしてあの頃の自分はふとした拍子に帰ってくるから。そして、あの頃の感情を呼び起こし、今の自分の生きている状況や今の自分の感じている想いを客観的に見てくれる。そうやって、見方はひとつじゃないんだということを思い出す。

俺の強みは何かって考えたときに、「様々な経験、人との出会い、そのときの感情のひとつひとつをしっかり感じ取り、フォルダ分けしてきちんと保存しておける力」ってのがひとつあると思った。
「記憶を呼び起こす音楽」みたいなエントリーを書いたけど、そうやって度々呼び起こされる記憶たちにも役割があったということを痛烈に今思った。こいつらのおかげで俺は俺でいることができているんだと。
積み重ねられた記憶の上に形成されていく自分、それからその記憶たちは溶け出して自分の中に入り込んで自分そのものになっていく。自分が生きている足下にはこれまで積み重ねてきた記憶たちが沢山いるけど、そのことに気づくことはめったにない。その代わり、その記憶たちは溶け出して入り込んできて、自分と同化し、細胞のひとつひとつを形成する。その先に、ある時突然ふとした拍子にある刺激をうけるとその細胞は活性化し、自分のすべてをその記憶で埋め尽くす。

同じものを見ても、見方はひとつじゃない。同じものを食べても、感じ方はひとつじゃない。同じ人と会っても、接し方はひとつじゃない。
そのことを知ってるから、どんなことがあっても大丈夫なんだと思える。
これからも俺は自分の中の自分をどんどん増やしていきたいし、それをすることで、ひとつのものに向き合ったときの対応の仕方のレパートリーはどんどん増えていく。そしたら、社会的に正しいと思われる解を求めるやり方や自分なりの正しいと思うかを求めるやり方を適切に求めていくスピードも正確さもどんどん上がっていく。そう肌感で感じている。

やっぱり俺はかくありたいし、かくあるべきだと思ってる。深さよりも広さ。広さを追求していく中で深さも深まっていく。そう思うから。
それがジェネラリストとしての自分の在り方の答えかなあ、と。

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